2. 『word's end supernova』
3. 大きな月
1.『プラトーン』
仕事から帰って暇になったので、前に録画していた『プラトーン』を観た。
『プラトーン』を最後まで、観られるようになるまで、いつまでかかるのだろう。
今回もまた、途中までしか、見られなかった。
三回目の挑戦だった。
『プラトーン』を観ていると、今回は、自分の中に二つの相反する気持ちが沸き起こった。
正直に言えば、ひとつは、攻撃性。「敵」がいて、自分も殺されるかもしれない状況で、それなりに自分の中に理由があれば、人を殺したり、殴ったり、憎しみをぶつけたり、するかもしれないなと思ったりもした。正直、映画を観ていてすっきりするところもあった。
反面、子供が悲しむ場面を見ると、もうひとつの自分が、「これはひどいのかも、、、、」と、自分も悲しくなった。
戦争は難しい。
もうちょっと、うまくやれないものかな、、、
そんなわけで、気持ちも暗くなってきたので、途中で観るのをやめた。
映画館で見れたらよかったな、とも思った。
映画館だったら、逃げられないような状況になる。お金も払ってるし、途中で出るとほかの人に迷惑かかるし、とか思うので、たぶん退席はしないので。そしたらきっと、登場人物たちの状況に、今回見た時よりは近くなることが出来る。
映画の登場人物たちは、米軍もベトナム人も、米軍同士の中でも、逃げられない状況だったと思う。
社会、戦争といった背景からも。
森の中で、敵の気配を感じながら舞台が進んでいく場面を見ててそう思った。
臨場感とかも、映画館では当然違いますもんね。
テレビで家で見ていると、いつでもそこから逃げられるし、傍観者としてしか追体験できないので少し物足りない気持ちもした。
ここでもまた、もっと見たい気持ちと、見続けることに耐え切れない気持ちという、相反する気持ちが自分の中にある。
ただ、自分もきっと、たぶん人間すべては、自分からは、もしくは、自分の状況からは逃げることは出来ない。
たぶん、僕は『プラトーン』を最後まで見続けることが出来ない何らかの状況の中にいて、もしくは、そこに何らかの自分が現れていて、そこからは逃げることは出来ないし、何かそこにも自分の生き方とか、考え方とか、まだ整理されていない思いがあったりするんだろうな。そう思います。
2. 『world's end supernova』
今週は朝通勤するとき、ずっとこの くるりの曲を聴いていた。
ビート音が、胸の奥に響くのが自分の気持ちを高揚させて、仕事に向かう気力も出た。
ある程度のストレスもある職場で、たぶんアドレナリンがある程度必要なんだろうと思う。
たぶん、ビート音は、心臓の鼓動にも似た音だったから、それが耳から入って、脳のどこかを刺激して、心拍数も上げられてたのかもしれない。
それにしても、くるりはいい。
今回のドイツやオーケストラ、をテーマに選んだアルバム二つが、一般的にどのような評価をされているのかはわからないが、僕にはとてもすばらしい作品に思う。オーケストラが来るライブなら行きたい。
くるりの今の状況について、本人たちの考えていることはまだ読んだりしていないが、面白い所にいるような気がする。メンバーが抜け、二人になった中で、岸田さんが何を考え何と闘っているのかはわからないが、作品として新しいものを臆面もなく出し続けられる強さと、自分のやりたいことを明確にして追い続けている姿は、表に出てくるものでしか判断材料がないが、僕にとって励みになる。
『philharmonic or die』 の中の「惑星づくり」なんかは特にオーケストラとドラムが、一体となっていた。今まで僕が聴いたことのない音楽だと思う。オーケストラがいい。
以前、岸田さんのブログ(日記)で年末にテレビの音楽番組でモーツァルトを聴いた感想が書いてあった。それに「アマデウス」っていう曲も書いている。
この人は、いろんな音楽を自分で消化している。オーケストラもしくはクラシック音楽と呼ばれるものの本質的なよさ、と僕が思うものを、この人は表現してくれている、と思った。
クラシック音楽も、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのラデツキー行進曲の盛り上がりのような、高揚感が、本質的には人の心を捉えているのだと思う。人は音楽にも、快感を求めるとも思う。
3. 大きな月
金曜日、仕事からの帰り道に、大きな月を見た。
昨日の帰りにも、月が出ていた。
金曜日、仕事で頭が疲労して、今晩何を食べようか、くらいしか考えれないときに、車を走らせてら、大きな月が見えた。満月の一歩前、「十四番目の月」だったと思う。「十四番目の月」は松任谷由美の曲に出てくる言葉だ。スピッツもカバーしている。月を見たら、人間に戻った。
動物としての人間かもしれないが。
また、生きていける気がした。
0 件のコメント:
コメントを投稿